安田理央の日本エロカルチャー私史~ライターから見た風俗史 80年代編~
80年代の風俗史を筆者の体験で振り返る。ファッションヘルスで風俗デビューからソープ、ピンサロとハマり、都内の歓楽街を遊びまわるライターデビュー前私史。
高級デリヘル.JP編集部から
アダルトメディア研究家でライターの安田理央が高デリjpに特別寄稿。筆者がかつて実際に遊んだり取材した、風俗やAVの世界を時代を追って紹介していくシリーズの一回目になります。
今回は日本の風俗の歴史を紐解きながら、安田氏がライターになる前の80年代を中心に振り返ります。
初風俗は高田馬場のファッションヘルスだった
公認売春地帯である「赤線」が売春防止法により1958年に廃止されるが、その受皿として性的なサービスを行う店が出てきた。当初は健全なマッサージだったトルコ風呂でも、スペシャルサービス(通称おスペ)として手コキが行われるようになり、それはどんどんエスカレートしていった。
50年代にアルバイトサロン(アルサロ)と呼ばれる女性が接客してくれる飲み屋も、次第にサービスが過激化し、ピンクサロン(ピンサロ)へと発展していった。60年代に入ると本番までしてしまう本サロまで登場。
そして70年代末から80年代初頭にかけてノーパン喫茶が空前のブームとなる。ウエイトレスがミニスカートの下にはパンストだけで、パンティを穿いていないという喫茶店だが、これが大人気を博し、最盛期には全国に800軒以上が営業していたという。
ノーパン喫茶が風俗に与えた影響として大きいのが、女子大生などの素人の女の子たちが、アルバイト感覚で業界に飛び込んでくるようになったことだろう。
ワケあり風だったり、ケバかったりというそれまでの風俗嬢のイメージがこの時期に大きく変わったのだ。
やがて気に入ったウエイトレスと個室でプレイが出来るというノーパン喫茶が生まれ、それがファッションヘルスへと発展する。
ソープランド(トルコ風呂が、トルコ共和国の留学生の抗議を受けたことから、1984年に名称変更した)や、ピンサロに比べるとライトなイメージのファッションヘルスには、素人女性が集まり、そしてそれを目当ての客も殺到。こうしてファッションヘルスは風俗のメインストリームへと成長していった。
筆者が初めて行った風俗店も、このファッションヘルスだった。1985年の7月、バイト先で仲良くなった年上の友達と新宿で飲んだ勢いで、高田馬場の店に連れて行かれたのだ。まだ高校生であったが(笑)。
バイトの給料が入ったばかりで、少し気が大きくなっていたのだろう。自分の料金は、ちゃんと自分で出した。確か8500円くらいだったはずだ。
さすがに、その時のプレイの記憶はぼんやりしているが、相手は20代半ばくらいのスレンダー系のなかなかの美人だったこと、シャワールームでいきなりくわえられて、びっくりしたことは覚えている。
その前に、一応初体験はすませていたのだけれど、フェラチオもこの時が初めての体験だった。仮性包茎なので、それまではオナニーでも皮越しに擦っていたのだが、ヘルスのお姉さんは皮を剥いて舐めた。快感というより電撃をくらったような感じだった。びっくりした。
「アソコ、見せてくれないの?」と聞いたらシックスナインをしてくれた。芳賀書店で購入した、ほとんど無修正に近いビニ本では網膜に焼き付くほどに何百回も見ていたが、実物をちゃんと見るのは初めてだった。
しかし、それがどんな形状だったのかは、記憶には残っていない。
あと覚えているのは、酒の酔いと緊張で、結局発射できなかったことと、それでも友人にはちゃんと発射したかのように話したことぐらいだ。
しばらくあのフェラの感覚は忘れられず、思い出す度に下半身が痺れて、固くなり、仕方なくオナニーで解消した。高校生には、そう簡単に遊びにいける金額ではなかったのだ。
この年、1985年は新風営法が施行された年でもある。深夜12時以降の営業が禁止されるなど、様々な規制が風俗店にかけられた。
50年代にアルバイトサロン(アルサロ)と呼ばれる女性が接客してくれる飲み屋も、次第にサービスが過激化し、ピンクサロン(ピンサロ)へと発展していった。60年代に入ると本番までしてしまう本サロまで登場。
そして70年代末から80年代初頭にかけてノーパン喫茶が空前のブームとなる。ウエイトレスがミニスカートの下にはパンストだけで、パンティを穿いていないという喫茶店だが、これが大人気を博し、最盛期には全国に800軒以上が営業していたという。
ノーパン喫茶が風俗に与えた影響として大きいのが、女子大生などの素人の女の子たちが、アルバイト感覚で業界に飛び込んでくるようになったことだろう。
ワケあり風だったり、ケバかったりというそれまでの風俗嬢のイメージがこの時期に大きく変わったのだ。
やがて気に入ったウエイトレスと個室でプレイが出来るというノーパン喫茶が生まれ、それがファッションヘルスへと発展する。
ソープランド(トルコ風呂が、トルコ共和国の留学生の抗議を受けたことから、1984年に名称変更した)や、ピンサロに比べるとライトなイメージのファッションヘルスには、素人女性が集まり、そしてそれを目当ての客も殺到。こうしてファッションヘルスは風俗のメインストリームへと成長していった。
筆者が初めて行った風俗店も、このファッションヘルスだった。1985年の7月、バイト先で仲良くなった年上の友達と新宿で飲んだ勢いで、高田馬場の店に連れて行かれたのだ。まだ高校生であったが(笑)。
バイトの給料が入ったばかりで、少し気が大きくなっていたのだろう。自分の料金は、ちゃんと自分で出した。確か8500円くらいだったはずだ。
さすがに、その時のプレイの記憶はぼんやりしているが、相手は20代半ばくらいのスレンダー系のなかなかの美人だったこと、シャワールームでいきなりくわえられて、びっくりしたことは覚えている。
その前に、一応初体験はすませていたのだけれど、フェラチオもこの時が初めての体験だった。仮性包茎なので、それまではオナニーでも皮越しに擦っていたのだが、ヘルスのお姉さんは皮を剥いて舐めた。快感というより電撃をくらったような感じだった。びっくりした。
「アソコ、見せてくれないの?」と聞いたらシックスナインをしてくれた。芳賀書店で購入した、ほとんど無修正に近いビニ本では網膜に焼き付くほどに何百回も見ていたが、実物をちゃんと見るのは初めてだった。
しかし、それがどんな形状だったのかは、記憶には残っていない。
あと覚えているのは、酒の酔いと緊張で、結局発射できなかったことと、それでも友人にはちゃんと発射したかのように話したことぐらいだ。
しばらくあのフェラの感覚は忘れられず、思い出す度に下半身が痺れて、固くなり、仕方なくオナニーで解消した。高校生には、そう簡単に遊びにいける金額ではなかったのだ。
この年、1985年は新風営法が施行された年でもある。深夜12時以降の営業が禁止されるなど、様々な規制が風俗店にかけられた。
お風呂代わりに格安ソープへ通う日々
それからちょうど1年後の1986年、今度はソープランドを初体験する。池袋北口に今も現存する格安店だった。さらに昼の早い時間に行って割引を適用した。
当時の筆者は、ソープが具体的に何をするところなのか、よくわかっていなかった。本番が出来るらしい、マットというものを使うらしい・・・・・・そんなところだ。
相手をしてくれたのは、やはり20代半ばくらいの、ロングヘアで色黒の女性だった。
初めて体験するマットプレイやボディ洗いは、くすぐったいばかりだった。ローションでぬるぬるになった肌を押しつけられるのは気持ちよかったけど、指先でサワサワとやられるのは、ちょっとたまらない。
その流れのままで、ツルリと入ってしまった。びっくりしていると、彼女は「これがツボ洗いっていうの」と笑った。
ベッドに移ってからも、なんだか自信がなくて、彼女に上になってもらった。
終わってから真夏の池袋の街に出ていくと、なんだか今さっきの一時間がウソのようで、まるっきり現実感がない気がした。所持金以上の大金を請求されるのではないかという緊張から開放されたというせいもあったのだろう。
1987年の春に筆者は小さな編集プロダクションに就職し、マイナーなアイドル雑誌の編集者となった。
とんでもなく忙しい日々が続き、死ぬほど安い給料すら使うヒマがなかった。そしてその忙しさの中で、女のコとつき合うヒマも元気もなかった筆者は、給料を風俗につぎ込むことを覚えてしまった。
よく行ったのが池袋の格安ソープだ。一ヶ月に2、3回行っている。早い時間の割引を使っても18000円もするというのにだ。
当時住んでいたアパートは風呂なしだった。徹夜で朝に帰宅すると銭湯にも行けない。そこでソープに行く、という感じだったのだ。だからいつも頭も洗ってもらっていた。考えてみれば、ソープに行くだけの金を家賃に回せば、風呂付の部屋に住めたのに。
慣れてくると、他の風俗にも手を出した。フェラをじっくり味わってみたいと思い、赤羽のピンサロに行ったのだが、なんと本サロだった。
ちょっと話して、いきなりゴムをかぶせられてフェラ、勃つや否や対面座位にてすぐ挿入、さらに椅子を二つ並べた上で、正常位本番。アッという間にイカされてしまう。なんだかよくわからないうちに終わって1万円。本番込みだから、安いというえば安いのだが、こんなに落ちつかないんだったら、本番なんて無くてもいい、そう思った。
ディープボックスなるサービスも体験した。新宿のファッションヘルスでやっていたもので、パンツを脱いで下半身を透明プラスチックの箱に入れると、パンティ一枚姿の女の子が手で抜いてくれるというものだった。これで3千円。当時話題になっていたラッキーホール(壁に女性の写真やイラストが貼ってあり、股間の部分に空いている穴にペニスを入れると壁の向こうにいる女性が手コキしてくれる)のバリエーションだったのだろう。
当時の筆者は、ソープが具体的に何をするところなのか、よくわかっていなかった。本番が出来るらしい、マットというものを使うらしい・・・・・・そんなところだ。
相手をしてくれたのは、やはり20代半ばくらいの、ロングヘアで色黒の女性だった。
初めて体験するマットプレイやボディ洗いは、くすぐったいばかりだった。ローションでぬるぬるになった肌を押しつけられるのは気持ちよかったけど、指先でサワサワとやられるのは、ちょっとたまらない。
その流れのままで、ツルリと入ってしまった。びっくりしていると、彼女は「これがツボ洗いっていうの」と笑った。
ベッドに移ってからも、なんだか自信がなくて、彼女に上になってもらった。
終わってから真夏の池袋の街に出ていくと、なんだか今さっきの一時間がウソのようで、まるっきり現実感がない気がした。所持金以上の大金を請求されるのではないかという緊張から開放されたというせいもあったのだろう。
1987年の春に筆者は小さな編集プロダクションに就職し、マイナーなアイドル雑誌の編集者となった。
とんでもなく忙しい日々が続き、死ぬほど安い給料すら使うヒマがなかった。そしてその忙しさの中で、女のコとつき合うヒマも元気もなかった筆者は、給料を風俗につぎ込むことを覚えてしまった。
よく行ったのが池袋の格安ソープだ。一ヶ月に2、3回行っている。早い時間の割引を使っても18000円もするというのにだ。
当時住んでいたアパートは風呂なしだった。徹夜で朝に帰宅すると銭湯にも行けない。そこでソープに行く、という感じだったのだ。だからいつも頭も洗ってもらっていた。考えてみれば、ソープに行くだけの金を家賃に回せば、風呂付の部屋に住めたのに。
慣れてくると、他の風俗にも手を出した。フェラをじっくり味わってみたいと思い、赤羽のピンサロに行ったのだが、なんと本サロだった。
ちょっと話して、いきなりゴムをかぶせられてフェラ、勃つや否や対面座位にてすぐ挿入、さらに椅子を二つ並べた上で、正常位本番。アッという間にイカされてしまう。なんだかよくわからないうちに終わって1万円。本番込みだから、安いというえば安いのだが、こんなに落ちつかないんだったら、本番なんて無くてもいい、そう思った。
ディープボックスなるサービスも体験した。新宿のファッションヘルスでやっていたもので、パンツを脱いで下半身を透明プラスチックの箱に入れると、パンティ一枚姿の女の子が手で抜いてくれるというものだった。これで3千円。当時話題になっていたラッキーホール(壁に女性の写真やイラストが貼ってあり、股間の部分に空いている穴にペニスを入れると壁の向こうにいる女性が手コキしてくれる)のバリエーションだったのだろう。
クラブのダンスフロアと似た印象のピンサロの空間
そして80年代の終わり頃、ピンサロにハマった。本番よりもフェラがいい、そう確信した筆者はソープ一回の料金で4回以上遊べるピンサロに通いまくっていた。
夕刊紙の広告を頼りに、割引の店を探して池袋、大塚、巣鴨、五反田と色々な街のピンサロに足を伸ばした。この時期、筆者は少しの現金があるとすぐにピンサロにつぎ込んでしまっていた。全ての金額を、「ピンサロに何回行けるか」という単位で考えていたような気がする。
「マハラジャ」に代表されるディスコブームが終わろうとしていた頃だが、ピンサロの暗い店内には、いつもユーロビートがフルボリュームで流れていた。そこに歪みまくった場内アナウンスが被さり、蛍光色のドレスを着たピンサロ嬢が、揃って一方向を向いたソファのボックス席の間を飛び回る。
「こんにちわー、じゃあがんばっちゃおうか」
そういってジーパンとパンツを引き下ろし、おしぼりで拭いただけのペニスをパクリとくわえる。ひたすらフェラチオを続け、そして口の中にザーメンを受けとめると、おしぼりに吐き出し、そして次の女のコと交代する。次のコも同じように挨拶もそこそこにペニスをくわえて……。
ドラッグ関係は、まったく苦手な筆者だが、この頃は、確実にピンサロのアシッド感にやられていたのだと思う。あのピンサロの光景は、クラブのダンスフロアとまるっきり同じ印象なのだ。
そして、年号が平成に改まる。大喪の礼の日、死んだように静まりかえった池袋の街で、一軒だけ営業していたピンサロを発見すると、吸い込まれるようにその店に入った。
~ライターから見た風俗史 90年代編~へと続く
夕刊紙の広告を頼りに、割引の店を探して池袋、大塚、巣鴨、五反田と色々な街のピンサロに足を伸ばした。この時期、筆者は少しの現金があるとすぐにピンサロにつぎ込んでしまっていた。全ての金額を、「ピンサロに何回行けるか」という単位で考えていたような気がする。
「マハラジャ」に代表されるディスコブームが終わろうとしていた頃だが、ピンサロの暗い店内には、いつもユーロビートがフルボリュームで流れていた。そこに歪みまくった場内アナウンスが被さり、蛍光色のドレスを着たピンサロ嬢が、揃って一方向を向いたソファのボックス席の間を飛び回る。
「こんにちわー、じゃあがんばっちゃおうか」
そういってジーパンとパンツを引き下ろし、おしぼりで拭いただけのペニスをパクリとくわえる。ひたすらフェラチオを続け、そして口の中にザーメンを受けとめると、おしぼりに吐き出し、そして次の女のコと交代する。次のコも同じように挨拶もそこそこにペニスをくわえて……。
ドラッグ関係は、まったく苦手な筆者だが、この頃は、確実にピンサロのアシッド感にやられていたのだと思う。あのピンサロの光景は、クラブのダンスフロアとまるっきり同じ印象なのだ。
そして、年号が平成に改まる。大喪の礼の日、死んだように静まりかえった池袋の街で、一軒だけ営業していたピンサロを発見すると、吸い込まれるようにその店に入った。
~ライターから見た風俗史 90年代編~へと続く
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取材者 安田理央
1967年生まれ。フリーライター、アダルトメディア研究家。1987年よりアダルト関係の原稿を書き始める。主な著書に「痴女の誕生」「巨乳の誕生」「日本エロ本全史」(以上 太田出版)「AV女優、のち」(角川新書)など。「たちまち はだかの業界物語」(画:前川かずお 日本文芸社)では漫画原作も。